昭和48年01月10日 月次祭
只今五日から、寒中修行が信心修行ですが、全教をあげて行われております。合楽教会でも特別このたびの修行期間を、五つの願いの決意も新たに、異常なまでの熱気をはらんだ御祈念会が、毎朝行われております。しかも家族勢を揃えての御祈念修行であります。もうすでに五日終わったわけでございますが、来月の五日までまぁ後残されておる二十五日間、どうぞ参加しておられない方は、是非ひとつ参加されまして、愈々信心修行に取り組ませてもらい、その修行がどの様なものかを。
体験体認させて頂いておかげを蒙っていきたいと思います。知らない方もある知っておるけれども、まだ踏ん切りがついてない方もある。私はそういう例えば先日二日目でしたですか、椛目にも熱心な方達が、何人もおられますのに、その朝は内田さんと、中島さんと、親子がお参りしておられただけでしたから、私は中島さんにお願いしました。どこにもここにも、どうぞ親先生が頼んで、寒修行中に出て来る様にと言うて、言われたから、一つ触れを回して下さい。
言うて回って下さいと言うてお頼みをしました。でまそれを聞く人もありゃ聞かない人もありますけれども。新たに寒中修行に参加されておると言う様な方達も、おいおいございました。本当今のここのお広前が一杯になって、私は本当にこの寒中修行だけぐらいは、この障子を取り外して皆さんが、勢祈念に励まれることを、もう本当に願いとしておるのでございますけれども。まだまだそこまで行き渡っておりません。実に残念です無念残念と言う事はあってはならないと、神様から頂くんですけれども。
それは私のために残念というのではなくてね、皆さんのために残念なんです。先日からも、御理解の中に二、三日前でした。すべてのことに時期というのがあるのです。物事には、時節というのがあるのです。だからその時節を待っておかげ受けたが良かろうとこう仰せられます。その時期を失したらです、いつ又おかげが受けられるやら分からないというほどしの事なのですよ実を言うと。改まるという事の上においても時期がある。さもう改まれと言われておると同じ状態下にある時に踏ん切りがつかない。
そして一年後に改またって、もうそん時は遅かという様な事があるんです。合楽教会に、ご神縁を頂いておる方達が、合楽の大きな流れというか、大きな動きというものに、便乗していきませんとですね。例えば今合楽教会全体が、五つの願いなら五つの願いということを、この寒修行にかけて、そのことの祈りをしておる事が、いわば東京行きだと致しましょうか。皆さんが願っておるおかげの行きと言う事に致しましょうか。
その東京行きがです、もう出た後ではね、いつその東京行きが出るやら分からんのですよ。というほどに私は厳密に、お互いがその辺のとこを考えさせて頂いて。所謂教会の信心の流れというか動きと共に、お互いの信心修行がなされなければいけないです。工夫すれば出けるとです。踏ん切りをつければ出けるとです。小倉の初代がおかげを、まだ受けておられます時。あるご本部参拝の時に、中村駒之介と言う有名な歌舞伎役者がおられます。この方は中々の名優でして、いうなら新作物が得意であった。
その時も丁度宇都宮の吊天井で有名な、お家騒動のお芝居を、岡山の近所に出ておられたそのお芝居に。そしてその、所謂こうなんか天井を伝わって行くといった様な、けれんみのあるお芝居なんです。それを綱が切れて下にまっ逆さまに落ちられた。もう体がね、グタグタになって、舞台には立てないという様な状態になられた時に、金光様の信心を聞かれて、おかげを受けられて当時は二代金光様、四神様のまだご在世の頃。そしておかげを頂いてから、また舞台に立たれるほどしに元気になられた。
段々信心が分かられるにつれて、もう愈々信心に一途になられた。そして俳優業を止められまして、岡山所謂金光町に転居して見えられた。そして四神様のお側近い御用をさせして貰うて、もぅ四神様の御寵愛を一心に集めたと言われる程しに、四神様のご信心を頂かれた方であった。とりわけ四神様のご結界奉仕された後の御用を、専心されたと言う事です。四神様の残された書き物は、もう殆どこの岡本さんのお宅にあったと言われるくらいですからまあ、随分の信心をなさっておったと言う事も分かる。
ところが、四神様が亡くなられての事であります。所謂小倉の桂先生が、ご本部参拝されて、その駒之介さんのお家の前をお通りになる時にですね。「岡本駒之介徳切れ」というお知らせを頂かれた。それで桂先生、駒之介さんのお家に参られましてね、懇々と信心を説かれた。あなたほどしのいうなら、金光様の思いがかけられておられた方ですから、当然あなたはお道の教師として、人が助かる事の為に、御用なさらなきゃいけませんよと、と言うて力説されましたけれども。それこそ沢山のお金はあるし。
それこそ紫檀黒檀の茶箪笥を後ろにして、紫檀の長火鉢の前に座って、玉露をすすりながらと言った様な、いうなら豪勢な生活をしておられた。今さら金光様の先生等と言うわけで耳を貸されなかった。その事を三代金光様にそれとはなしにお話になった。金光様世の中には後ろから、言わば津波がもう一呑みに家も財産も一呑みにしようとしておる様な状態の氏子がおりますが、本当に気の毒な事でありますと言うてからご挨拶を申し上げたら、三代金光様があぁあの氏子かもうあの氏子は駄目じゃっと仰ったそうです。
金光様はその事はもうご承知であった。あぁあの氏子かもうあの氏子は駄目じゃと。それから間もなく東京の取引の銀行が倒産倒れた訳です。それからあただに釜山当時の朝鮮の釜山ですね。釜山に教会を持たれる様に色々と手配をされて、今にも釜山の教会に行かれるばっかりな所へです色んな問題が起きて参りまして、右が左左が右と言う事になって、とうとう成就しない内に病気になられて間もなく亡くなられたと。本当に後ろから津波が一呑みにしておる様な、そこん所を桂先生にお知らせがあって。
さぁ今なら遅くない。いっちょどうでも人を助ける身になりなさいと言われたけれども、その時はそれを右左にされて聞こうとされなかった。いかにも時期時節と言う事がそんなら今からと言うて、腰を上げられた時にはもうすでに遅かったというのです。合楽の場合でも同じ事が言えるです。今合楽でもうそれこそ口を開けば、五つの願いがどうなっとるかと、亜ぁ愈々取り組んでほんとに有り難い。今朝から椛目の中島さんが、お届けしておられます。先日私主人が今こちらへ帰っておられます。
ちょっとその諍いの様なとをしよった。そしたら子供が横から五つの願い五つの願いち子供が言いますち。言うなら家族を挙げてその様にして五つの願いに取り組んでおる時なのです。それがほんならあなた方の一人一人の家庭の中に、その様に五つの願いというのが、まだ徹して入って行ってないとするならです、まだ今合楽の信心に便乗していないのですから。しかも合楽で教会を挙げて、修行に取り組ませて頂いておるというのですから。それに本気で私共が便乗させて頂く、おかげを頂かして貰うと言う事。
それを本当に修行とさせて頂くと言う事。これは皆さんどうでも一つ本気でそれを実行成程まあ遠いといや遠い早いといや早い。けれどもそれでも出来んならね仕方がないのですから、それに当たる修行をお互いが合楽と共に何かの形においてなされなければ、私はいけないと思う。先程光昭が前講を務めておりました。昨日からなんかこう体が腕が痛いとこう言う。そのために信心の方は、腕が痛いからご無礼すると言った様な事だけれども、自分が好きなギターを弾く時には一つも痛くないと、こういう訳なんです。
こりゃそんなもんですよね、好きな物、好きな事。私どもが少し頭痛どんがしよる位な事はです、好きな三味線でも弾きよると、頭痛を忘れてしまいよりました。こりゃ私自身がそうです。そこでどうでも私はですね、その信心がそういう様に、何をするよりもお広前にお引き寄せを頂くとか、御教えを拝聴しておるとか、御祈念をさせて頂いておるという時が、私の一番有り難い時であると言う位に、信心が好きになるという事が、一番有り難いことなのですけれども。
ほんなこてそれこそ、誰々さんじゃないですけれども、そげんあんた毎日参らんでんよかじゃんのち言うちから息子が言うた。そしたらお母さんが言わっしゃった。私が好きでばし参ろうち思うとんのち。はぁあんたどんがごつお願いせにゃんけん、参りよるとばいち言うから言わしゃった、と言う話、隣の人が聞いてから話しよる。はぁ成程隣の小母しゃんな、あげん毎日参りござるばってんか、ありゃ好きで参りござるとじゃなか、そりゃしかし皆そうじゃないでしょうか厳密に言うたら。
こん早かつから何が好きで参るのそげん。おかげ頂かんならんばっかり参りよるとじゃけんあんた。あんたどんがこつば、お願いせにゃんけん参るとばの、と言うのがですそれ実際本当なのかも知れませんよね。本当に誰がなんと言うても好きで、もうとにかく有り難いお礼参拝が出来ておる。その有り難い有り難いを、愈々本当なものにする事の為に、信心修行も厭わないという様な所まで行けば、もう大丈夫なんですけれども。
中々それこそ好きでばし参りよるのち言うとが多かもんですからね、やっぱりそういう事になるのです。そこで私は思うんですけれども、いま寒修行なら寒修行、教会を挙げて取り組んでおるのでございますから。そういう修行という例えばこれは、私の一番下の息子栄四郎ですけれど。脇殿のお手洗いの水を、毎日あれをさらえたり、洗ったりすることを修行としておる。それもいつも夜中晩皆が寝静まって、自分が勉強にかかる前とか、また勉強してからしておるらしいんです。
それを私は、この頃知ったんです。だから他の事は出来んけれども、私は信心しなければおかげは受けられない。信心の家庭に生まれて神様のおかげで、学校にもやらせて頂いておる、お賄いを頂いておるのだから、せめてこの位な事ぐらいはさせて貰わねばと言うのが、まぁ彼の心の中にそういう修行心を作ったのじゃないでしょうか。大した信心も出来ん勉強も出来ん、けどもこれだけは、どんな事があってもとこういう心を定めておる。先日もまあ勉強が済んでから替えるはずじゃったらしいんです。
ところが炬燵ん中でとうとう寝てから、朝学校行く時間まで寝とった。そこでここへ出てきてから僕は昨日は、お水替えるとを、こんな訳でできてなかったから、今日一日断食させて頂きますからと言うお届けをするんです。要はそのお詫びのしるしにと言うのでしょう。だからせめてね、そのくらいなところのものが、お互いの信心の一つの筋金になって参りますとね、私は有り難いと思うんです。
寒中修行が只今あっておる。だからせめて三日なりと、せめて五日なりといいや、もうこの寒中修行だけは、どんな事があっても行じさせて貰うと、何かそこに一つの願いを立てる。私はね本当言うたらそういう神様が、頼むように言うておられる、そのことに頼まれてと言うわけではないけれどもです、その信心に便乗させて頂いた信心をしよらんと、いざという時に、頼み難かごた気はせんでしょうかと。
例えばこの五つの願い五つの願いと言われるけれどもです。自分の信心修行が少し疎かになっておる時には、願いが願いにならないです実感として。不思議ですと言う事はです、願い難うなっとるという印でしょうが。そんな体験ないでしょうが皆さん。信心修行をさせて頂いておる時なこの五つの願いは、本当に繰り返し繰り返もう本当に繰り返し、お願いが出来るしかもそれは神、こうずっと浸透していく感じがする。
ですからね修行させて頂いておらんとです、本当に願う時にです願う事は出来ましょうけれども、おかげになるという確信の持てる願い方が出来んです。しかも勢を揃えて家族中で。私は思うです本当に家族中で、そういう信心修行が出来、あもう何もかにもほっといて、さぁさぁさぁお参りだ、さぁ寒修行にとほんなら一家中の者が、自動車なら自動車でやってまいるとしましょうか。私はもうそれがね、本当に嬉しゅう楽しゅうならにゃいけんと思うです信心とは。
家内と手に手を取って、親子が手に手を取って、信心修行が出来ておると言う様な信心がですね、私は楽しゅうなってくるという、有難うなってくるという信心を、させて頂かなきゃならん。先ほど青少年の育成のお話があっておりましたがです。例えばこういう寒修行の時にです。両親に連れられて、子供もお参りをしてくる。今の桜井先生の所なんか、朝僕も起こしてくれと言うそうですから、もう長男を起こしてから、夫婦が参って見えるんです。もう私はねそういう様な、もう実際にね。
いうなら肌で信心を教えていくということ、そういう事がね、大切じゃなかろうかとこう思うです。子供が本当に信心になってくれりゃ親は安心です。どうなろうかこうなろうかて言う心配はないです。神様に任せられるです。昨日は福岡の杉山さんところの、お母さんの五十日祭でございました。秋永先生夫婦をはじめ、他の杉山さんのご兄弟たちもみえての、お祭りでした。神様の方へご挨拶をさせて貰うて、御霊様へ移るわけですけれども。そん時に私のご心眼に頂いたのが、あの天ぷらを頂いた。
天ぷらというのは、海老の天ぷら、海老天なんです。工事なんかが本当の事が出来ていないのを、天ぷら工事と申しましょう。中身が出来てない。今日の霊祭を、こうして奉仕しとるけれども、本当のものじゃないんだなと。ま大橋がまぁやあやあ言うから。ましょうことなしと言うわけでもないけれども、しておるお祭りと言った様な感じ。それでも言われるから、いっぱしのお祭りを、形の上では出来たけれども、はあ今日のお祭りは本当のものじゃないなと思わせて頂いておりまして。
なおお願いさせてもらいよりましたら、霊神様のほうへ移らしてもらい、段々ご祈念をさせてもらい、私昨日その有り難いと思ったんですけど、ご祈念中にねあちらのお婆ちゃんのお名前はなんて言いよったか、度忘れした私は時々度忘れするんです。ご祈念中に一生懸命思い出だそうとするけれど、思い出さんのです。それからご霊前に出てから、あの御祈念させて頂いてから、あの御祈念して、礼璽に出ました。そしたらもうありとあらゆる花が、こういっぱい飾ってあるという中にです。
お婆ちゃんのそのもうこれ以上に嬉しい顔ちゃなかろうといったような嬉しい顔を拝まして貰うた。はぁそん時にあぁあっちのお婆ちゃんは、ほんにはなち言いよったたい、杉山はなって言うんですよ。沢山な花を見せて頂いてから思い出した。いわゆるそのお祭りをね、もうどのようにか、喜んでおられたか。しかも頂くことがね、あの一代仏になるところであったと。一代仏と言うのは、もう信心が一代で終わる、お婆ちゃんは昔、博多教会で熱心に信心をしておられた。
お爺ちゃんは、福岡の教会で信心をしておられたという様に、以前は信心の手厚いお家であったのが、もう途絶えておった。そこへ大橋から信心が移っていって、三男さんが信心をするようになった。と言うてもまぁあの程度の信心なんですけれども。私は本当に感動して、有り難いお祭りになって、それから次々と皆さんが玉串を上げられる。三男さんが、もちろん中心ですから一番初めに。もうその時にはね、三男さんがもう涙ぐんでから玉串を上げとるんですよ。
はじめの間は、そげん一生懸命な思いもなかったんだけれども。段々お祭りが進んで、御霊様に玉串を上げるという段になったら、はぁお祭りを仕えて貰うて良かったというものが、これに湧いてきたんです。そして私の心眼に天ぷらのね、天ぷらを海老の天ぷらの、衣が綺麗に取れていくところを頂いた。ほんなもんになってきたち言うこと。ですから、私は昨日それを思わせてもらいました。ここからここまで頂かなければ真心ではないとか、真ではないとかいうことは決っしてない。
だから昨日の杉山さんのそれも、神様は金光大神のお取り次ぎを頂くことによって、真として受けておってくださる。その次第次第に始めは天ぷらであったのが、自分自身もです。はぁお祭りをして頂いて良かった、母も喜びよるじゃろうと、こういう様な思いがです。芯からの有り難いものになってきた。私どもの信心は、大体はそんなものじゃないでしょうか。始めはご利益ご利益だけじゃったけれども、段々だんだん本当のことが分かってくる様にです。
だからその時点でそのことはもう真である、真心である。と言うてそれで良いと言うことではない。また真真心というものは、限りがない。真とは努めても努めても、努め足りんのが、真だと言われておるくらいですから。ほんなら今日例えば自分ながら、こりゃ不純なものだと思うてもです。お賽銭十円のお供えをする、百円のお初穂を奉るそれは不純なものであってもです。
こうやって段々お祭りを頂いたり、お話を頂いておるうちにです、心がなにがなしに、有り難いことになってきたら、その十円がその百円は、真として神様が受けてくださるんです。そこで私はね、そのことから思わせて頂いた。最近五つの願いという願いが打ち出されて、もうそのことに皆が取り組んでおる。取り組むと愈々難しいことに気付かせて頂くと、皆さん言っておりますけれども。どうぞ体の丈夫を願わせて頂く、家庭円満のことを願う、子孫繁盛家繁盛のことを心の底から願うのですけれども。
後の二つの願いになると、本当なことではない、真実のお役に立ちたい、神願成就のことのために、祈ると言う事は力が入らない。この五つの願いが全部、出来なければ五つの願いをした方ないと言われるなら、こりゃ難しいのですけれどもです。いえ始めのその三つの願いだけでも、本気にで出来させて頂いておると言う事がです、その代わりに修行がしてある。家庭の円満を願うからには、もう責めないもう金輪際、人を責める様な事はせんといったような修行を心がけておる。
体の丈夫を願うからには、不摂生な事はしない。例えばお夜食なんかは食べませんと言ったような修行をさせて頂いておる。子孫繁盛家繁盛を願うからには、無駄遣いはしません、仕事に忠実にならせて頂きますといった様な修行をさせて頂いておるというだけでもです。もうそれはすでに真だと言う事。私は後の二つが出来とらんけん、とても私じゃ難しかと言うことはないと言うふうに、私はその三男さんの事から感じさせて頂くようになりました。もうこればっかりは許されないと、例えば思うておってもです。
許されないことでも許せれる。その時点時点をです、取り次がせて頂けばよい様な事を、今日私はしきりに感じさせて頂いた。はぁあんた達のその思いが足りない、そげなこっじゃいけないと言うのではなくて、その時点をです、大事にしていくという事その事が真だ。ほんなら、それをまた育てていくと言う事が信心なのだ。そこで育てていくという、育つと言う事のために、お互いが修行を志させて貰うということ。それにはせめて教会で寒中修行というのが、一月間、年に一回あるわけですけれども。
普通は、朝参りは出来ないけれども、せめて寒中修行の間だけぐらいは、一つお参りをさせて貰わなければとか、出来んならばこういう修行を、色々工夫させて頂くと言う事がです。そう言う事が必要ではなかろうかと。段々分からせて頂けばです、せめてこの位な事だけぐらいは、と言うものをです、段々育てていかなければいけん。いつも同じところに留まっとたんじゃ、信心は成長していないことになるのですから。そういう意味で例えば私どもがです、修行を神様に願わせて貰う。
修行心が出てくることを願わせてもろうて、それを実行させて貰う。出来んならそれに変わる修行でもさせて頂いて、お詫びの印とさせて貰うというくらいなものが、信心の稽古をさせて頂いておるならば、出来なければいけんのではなかろうかと思うんです。とりわけ、私は今五つの願い、しかも今寒中修行に、そのことを中心にお互いが、そういう一つの船に乗らせて頂いておるのですから、その船に乗り遅れると言う事はです、もう出た後では間に合わんと言う様な感じが、切実にするのです。
いやよか自分なもう一つ月後にやるけんでと。時にはもう例え同じ改まっても、同じ事が出来てももうそれでは遅かと言うことになる。言うなら取り返しがつかない。合楽中で、掛け声を揃えて、信心させて頂いておる。そういう信心に、私は便乗させて貰うて、信心は出来んけれども、それに便乗させて頂いたおる安心と言うか、喜びと言うものが感じられるまでの信心修行にならなければいけません。これは、本当に、私は皆さんに、一人一人お願いをしてでも、是非実行して頂きたい。
五つの願いが成就させて頂く事の為に、又はそういう祈りの焦点と言うものが、はっきり打ち出された。そこへ寒中修行が始まったのですから、その寒中修行にです便乗させて貰う。お参りが出来んなら、寒中修行の時間にぐらい起きさせて貰うて、ご祈念でもさしてもらうとか、何とか工夫さして貰うて、しかもそれが一家中に響いて行く様な働きになってくる願いを立てなければいけんのではないかとこう思います。
四神様と桂先生、桂先生と岡本駒之介さんの話をさせて頂きましたが、時節というものは確かにもう待たないのです。又は時節が来ておってもです、それに気付かなかったら、おかげにならんのです。時節を待っておかげを受けたが良かろうと言うのは、ただ腕こまねいてと言う事ではありません。私共が一生懸命の修行をしとらなければです。その人なりの、信心修行がでけておらなければです。その時機も失する事になり、時期がいつ来たやら分からない事に終わったんでは。
私共としても残念な事ですし、又神様はそれ以上に残念に思し召す事であろうと思うのです。私は例えば自分は、しようと思う時には出来るからというね、我流の信心からです、どうでも所謂勢を揃えた信心。いうならば団体での信心でないと、大きな力にならないと思うんです。どうぞ一つそういう願いが立てられておる時で御座いますから。本気で一つ寒中修行を、有り難い修行で終わらせて頂き、愈々五つの願いの中身を、もっともっと真剣に分からせて頂かなければならんと思うのでございます。
どうぞよろしゅうお願いします。